古代エジプトのロマン
杉浦勇三
第1章
古代エジプトの幕開け
1799年のある日、一人の男がたった一人でカイロの郊外にあるクフ王のピラミッドの中に入っていった。数時間後、戻ってきた彼は顔面が蒼白であった。お付きの武官は心配して、その男に、
「陛下、一体どうなさったのですか。」
と、遠慮がちに尋ねた。彼はしばらくの間放心状態であったが、ふと我に返ると、「不思議な御告げを受けた。」と、一言いった。その彼こそは、フランス皇帝ナポレオン1世であった。
ナポレオンはその後幾多の戦いを経た後、最後は捕われの身となり大西洋の孤島セントヘレナへ流され、その生涯を終えることになる。そして彼はその死に際に、「あのピラミッド内での御告げは本当であった。」と、と漏らしたとのことである。当時はまだ古代エジプト史はほとんど解明されていなかった。しかし、このナポレオンがエジプト遠征を行ったことが、深い眠りに入っていた古代エジプト史の解明の口火となったのは、事実である。
(1) 偉大なるナポレオン
エジプトは5,000年の悠久の歴史をもっている。その前期の3,000年は古代エジプトの歴史である。多くの人たちは古代エジプトと言えば、ピラミッドや黄金のマスクで有名なツタンカーメン王、多くの遺跡を残したラムセス2世、そして、あの悲劇の女王クレオパトラ等を思い起こすことであろう。また、世界的に有名なオペラ“アイーダ”も古代エジプトの物語である。なぜ世界の多くの人達がこの古代エジプトに心を奪われるのだろうか?それはきっとこの古代エジプトの文明が日の目を見てから僅か200年の歳月しか経っておらず、まだまだ新しい発見が期待出来るからであろう。そして、近代になって、この歴史のゲートを開けた功労者は一体誰であったのであろうか?
それは、一人は1822年あの神秘のベールに包まれていた幻の“ヒエログリフ(神聖文字)”の解読に成功したフランス人シャンポリオンではないだろうか。もう一人は飽くなき執念で1922年にツタンカーメン王墓を発見したイギリスの考古学者カーターであろう。そしてさらに偉大な人物といえば、冒頭のフランス皇帝ナポレオン1世である。ナポレオンは、1789年当時敵対国であったイギリスの南下を阻止するため、フランス軍を率いてエジプト遠征を行う。その時彼は軍隊の他、当時は全く未知の分野であったエジプト学を研究させるため、天文学、地理学、動植物学,人類学等あらゆる学者を80名エジプトへ同行させたのである。後年ナポレオン亡き後、それらの学者達の研究努力が実り、“エジプト記”として刊行され世界中にエジプトが紹介されることになる。それ以降、エジプト学は急速に発展することになる。
話を元に戻すことにしよう。ナポレオンはエジプトに到着するとすぐにイギリス海軍を迎え撃つため、地中海に面したアレキサンドリア近郊のロゼッタの町に要塞を築かせる。その時発見されたのがあのロゼッタストーンである。なぜこのロゼッタストーンが有名になるのであろうか?それはこの石碑が幻の文字であったヒエログリフの解読の鍵を握っていたからである。この石碑は三つの異なる文字で構成されていた。すなわち上段にはヒエログリフ(神聖文字)、中段にはデモティック(ヒエログリフを筆記体にしたもの)、そして下段にはギリシャ文字(コプト文字が原型と言われている)が刻まれていたのである。少し詳しく述べると、この石碑はエジプト最後の王朝のプトレマイオス5世(BC130年頃)の治世に造られた宣旨であった。
この王朝の開祖はアレキサンダー大王の一司令官であったプトレマイオス将軍で、彼は大王亡き後、自らの支配地であったエジプトに王朝を築き、由緒ある古代エジプト朝を継承したのである。そのため、この石碑には古代王朝のヒエログリフと彼等自らの出身地マケドニアで使用されていたギリシャ語を併用したものであった。しかしその後ヒエログラフは継承者が絶え,ローマ時代に入ると全く死滅してしまうのである。
(2) ヒエログリフの解読
当時シャンポリオンは語学の天才と言われていた。特にコプト文字にはとりわけ造詣が深かった。しかしこのヒエログリフの解読には困難を極めた。そして、ロゼッタストーン発見から23年後の1822年に、彼はやっとのことでヒエログリフの文字が表意文字と表音文字との構成で成り立っていることを発見するのである。そのヒントは上段のヒエログリフの文字数と下段のギリシャ語との文字数の違いや、クレオパトラとプトレマイオスの文字の記号レ オ トが同一の絵柄であることに気付くのである。そして,シャンポリオンはその後、全く謎の文字であり、誰も読むことの出来なかったヒエログリフの石碑やパピルスに記載されていた文章を次々に解明することに成功し、約2,000年間沈黙を守っていた古代エジプト文明を鮮やかに蘇らせるのである。現在そのロゼッタストーンは、フランスとの戦争で戦勝国となった英国に持ち出され、大英博物館に展示されている。
少年王ツタンカーメンは古代エジプトのファラオの中で、世界中の人々に最も愛され人気のあるファラオであろう。しかし彼は王位僅か10年足らずで、19歳の時に急死してしまう。それでも人気があるのは、今現在,他に多くのファラオの墓が発掘されているが、その財宝はことごとく盗掘に遭い、現存していないからである。それではなぜツタンカーメン王墓のみが盗掘を免れたのであろうか?
ここで、古代王朝の系譜のことを述べることにする。最後の王朝プトレマイオス朝の時、あるファラオの命令で、当時の神官であるマネトーという人物が古代エジプト約3000年のファラオの系図を作成することを命じられる。彼は、便宜的に古代王朝を30に区分してそれぞれの歴代の王命を記述し,後世に残したのである。しかし、なぜか第18王朝(BC1,450-BC1,310)の歴代王名にあるはずのツタンカーメン王の名前は記載されていなかった。
ここで,話を戻すことにする。カーターは貧しいイギリスの考古学者であったが、王墓発掘には大変強い関心を持っていた。しかし発掘には莫大な費用が掛かり、カーターにはその金がなかった。そこへイギリスの貴族カーナボン卿という人が彼の持病である喘息の治療のため、転地療養先であるエジプト・カイロに滞在していた。かれもまた発掘には興味を持っており、運命は彼をカーターに引き合わせる。意気投合した二人はカーターが信じていた王名にないツタンカーメン王の墓が未発見であり、必ずファラオとしてルクソールの“王家の谷”の墓に眠っていると確信を持っていた。
しかし、1年そして2年経過、やがて5年経っても王墓は発見できなかった。カーナボン卿も資金が枯渇して来て、二人の仲はだんだんと冷めていった。そして、ついにカーナボン卿はこれが最後の投資だとカーターに宣告した。カーターは自分が今まで全く考えもしなかった場所に目を付けた。そこはツタンカーメンの死後200年後ファラオである第19王朝のラムセス6世王墓の横であった。昔そこには墓番の小屋があったところである。通常ファラオの墓の上に小屋を建てることなど考えられないが、歴史とは皮肉なものでラムセス6世の治世にはツタンカーメンが存在していたことが、忘れ去られていたのだろう。一説では、ツタンカーメン王の在位が短かったこと、そして19歳の若年で急死したため王墓を準備する期間がなくなり、多分、予備の墓を急場に利用したため、長い歳月の間、そこが王墓であるということが墓泥棒にも気付かれずにすみ、盗掘を免れたのではないかと言われている。しかし実際には、ツタンカーメン王の死の直後に一度盗掘に遭っているのである。当時ツタンカーメン王が最も信頼していたマヤという執事が墓の入り口で盗賊を捕らえ財宝を元に戻したのである。
いずれにしても、カーターは1922年、ついにツタンカーメン王墓を発見するのである。当時王墓の発見にはエジプト考古学庁の役人が確認するまで王墓の扉を開けることは禁止されていたが、カーターは高ぶる興奮を抑えきれず扉の右下の壁に穴を開け、カンテラにローソクの灯を灯し王墓の中に入っていった。そしてカーターはその財宝を目前にした時、一体どんな気持ちであったのであろうか。きっと,筆舌しがたいものであったあろうことは想像がつく。実際エジプト考古学博物館にある発掘当時の扉の写真には,扉の壁の穴をカーターが“わら”で隠している。以上がツタンカーメン王墓の話である。
以上のことから,古代エジプト文明の発見の功労者は,ナポレオン、シャンポリオン、カーターが最も偉大であり、この3人が存在していなかったら古代エジプトの歴史の解明は,ずっと後世に至るまで明らかにされなかったことであろう。
古代エジプトの歴史はBC3,000年に始まる。もちろん,それ以前に石器時代もあり、現在でもカイロ郊外のファイユームには遺跡がある。
当時、各地には集落があり、領主がいて、それぞれの地域を支配していた。エジプトの領土はナイル川を中心として南北1,200キロにも至るため、すべての領土を支配することは至難であった。
特にナイル川流域の緑地帯を「植物」に例えれば、「葉」の部分にあたる地域を「下エジプト」と呼び、「茎」の部分の地域は「上エジプト」と呼ばれていた。そしてBC3,000年以前には「下エジプト」と「上エジプト」の王がそれぞれの領土を支配していた時代があった。
やがて一人の強力な王が出現し、上下エジプトを統一することに成功する。その名をメナス王(ナルメル王とも呼ばれている)といい、彼は統一後,上下エジプトの分岐点となる現在のカイロ近郊のメンフィスに都を建設する。それ以降、古代エジプトの歴史は大別して,古王国時代、中王国時代、新王国時代、そして、グレコ・ローマン時代に分けられ、最後の王朝プトレマイオス朝クレオパトラ7世の時、あのローマ軍のオクタビアヌスにBC30年に滅ぼされ、終焉を迎えることになる。
(1) 古王国時代
メナス王の初期王朝から第5王朝時代までが古王国時代と呼ばれている。この時代の特徴と言えば、なんと言ってもピラミッドの建設であろう。今でもカイロ近郊ギザ市にある三大ピラミッド(クフ、カフラー、メンカフラー)には多くの観光客が訪れ,エジプト観光のメッカとなっている。それではなぜ当時のファラオはピラミッド建設に飽くなき執念を燃やしたのであろうか?
古王朝初期の王墓と言えば、マスタバ墳(ベンチという意味)と呼ばれ、長方形のベンチ型の墓であった。しかし時がたつにつれ、ファラオ達は少しでも死後、太陽神ラーに近づきたいという願望と自己の権力を国民に顕示する上で、高くて強大な墓を求めるようになった。その取り掛かりとなったのが,第3王朝のサッカーラにあるジョセル王の階段ピラミッドである。この墓は当初マスタバ墳であったものを何段も重ねて作られており、段々と高くなっていて、まさにピラミッドの原型と言える。その後、第4王朝に移り、あのクフ王のピラミッドに続くのである。
今から4,580年前、クフ王はピラミッド建設に着手する。そして30年後の4,550年前にピラミッドは完成する。一辺が230メートル,高さ146メートル、使用された石の数230万個(コンピュータ上の計算)、建設に従事した人夫の数は延べ9,900万人。全く想像もつかない大事業である。
また、このピラミッドには数々の謎がある。なぜ一辺が230メートルなのか?これは当時エジプトで使われていた長さの尺度(エジプトインチと呼ばれている)が人の指先から肘の長さを1としており、これを当てはめると230メートルは365エジプトインチとなり、当時から1年が365日であることが分かっていたと言うのである。また高さ146メートルはどうかと言うと、当時の地上から太陽までの距離が146メートルの10乗に値すると言うのである。以上のことは推測であるが、驚くべきことは230メートルの四角錐の四辺を現在実測しても、30センチと狂っていないのである。そして、この四辺の方向が東西南北に寸分狂わず正対しており、後のカフラー王、メンカフラー王のピラミッドも全く同様で、航空写真で見ると太陽の影がきっちり同一方向を示しており、まるで日時計の替わりにでもしたようである。いずれにしても当時は計器や重機もない時代に、その科学力は人間業とは信じ難く,宇宙人が造ったのでないかという憶測もまんざらではない気がするのである。
この他,ピラミッドには、まだまだ多くの謎があり、もっと詳しく知りたい方は、吉村作治、早稲田大学教授の“ピラミッドの謎”をお読みになることをお勧めする。
古王国が終わると、統一王朝はしばらくの間崩壊し、戦国時代となる。(この時期を第1次中間期と言う。) そしてその後、中王国時代を経て、やがて新王国時代を迎える。
(2) 新王国時代
この時代は古代エジプト史の中で王朝が最も繁栄した時代であった。特に第18王朝と第19王朝時代では多くの興味あるファラオが登場する。まず18王朝には、女王ハトシェプスト、エジプトのナポレオンと言われたトトメス3世、宗教改革を断行したイクナテン王、そして、あの少年王ツタンカーメン、そして、第19王朝では、なんと言っても90歳以上長生きしたラムセス2世であろう。
新王朝時代には、既に都は古王国時代のメンフィス(カイロ郊外)から600キロ、ナイル上流のテーベ(ルクソール)に移されている。この地には、かの有名なカルナック神殿やルクソール神殿があり、ナイル西岸にはファラオの墓がある王家の谷がある。そしてファラオの墓はなぜか人里離れた岩窟の中に造られた。それはなぜであろうか?
古王国はピラミッドがファラオの墓であった。しかしピラミッドの中のファラオの玄室へ通じる通路はいかに巧みに隠しても墓泥棒の執念の前には勝てなかった。ファラオ達の財宝は全て盗まれ、再生を願うファラオのミイラも解体されたりした。新王国のファラオ達はその盗掘を最も恐れたのである。彼らもまた死後、現世に戻れることを第一に願っていたからである。
かくして王墓はナイル西岸の王家の谷へ、そしてナイル東岸には葬祭殿としてカルナック神殿やルクソール神殿を建て、国家神であるアモン神や太陽神ラーを祭り、全ての祭事や儀式はそこで行われたのである。
(3) 女王ハトシェプストとトドメス3世
第18王朝初期の頃、一人の女王が誕生する。その名をハトシェプストと言い、トドメス1世の娘であった。彼女は父トドメス1世の死後、ファラオとなったトドメス2世の妃であったが、トドメス2世も若くしてこの世を去ってしまう。次期ファラオはトドメス2世が側室のレディイシスに生ませたトドメス3世であったが、彼はその頃まだ少年であり、ファラオとして国を治めるには力不足であった。そこでハトシェプストは彼の摂政となり、政治の実権を握ることになる。しかし、当時ファラオは男子でなければならないという王国の掟があったため、彼女は人前に出る時は堂々とファラオの衣装を身に着けていたのである。そしてトドメス3世を国境の警備に就かせ中央の政治から遠ざけてしまう。
ハトシェプストは女性であったこともあり、国益のために領土を拡張する政策は取らず、もっぱら他国との交易で国を富ませた。私生活面では、当初は一人娘の家庭教師であったせンムトと言う男性と愛人関係にあったらしく、またセンムトは政治経済の才覚のある人間であったため、やがて宰相の地位まで上り詰める。1997年11月、あのルクソールの痛ましい事件のあった、三層のテラスを持つデル・エル・バハリの葬祭殿は、このセンムトが女王の功績を称えるために建立したものである。しかし後年、女王はこのセンムトを恐れ罷免してしまう。その後トドメス3世が成人すると,トドメス3世と共同統治を行う。
しかし女王が亡くなると、トドメス3世はハトシェプスト女王の像や彼女が建立した記念碑等をことごとく破壊してしまう。そして彼は軍隊をヌビア地方(現在のスーダン)に派遣して、エチオピア国境近くまで攻め上り征服してしまうのである。やがてエジプトの領土は建国以来最大の領土となり、後世トドメス3世はエジプトのナポレオンと称された。
今でもエジプト考古学博物館には、ハトシェプスト女王の頭のない像やつぎはぎだらけで修正されたことのよくわかる像が残されている。またハトシェプスト女王が造らせた、センムトがハトシェプスト女王の娘を抱いているほほえましい像もあり、女王がいかにこの二人を愛していたかが偲ばれる。また、また同時にトドメス3世の生みの親でありレディイシスの像もあり興味深い。
(4) イクナテン王と宗教改革
トドメス3世から4代目のファラオはアメンヘテブ4世である。しかし彼はなぜかこの由緒ある王名を用いず、自らイクナテンと名乗った。何故彼はその名を名乗ったのであろうか?
当時のエジプトは多神教国家であった。そして多くの神の中からヘリオポリスの一地方神であったアモン神が国家神に選ばれた。また、歴代のファラオ達は遠征等から凱旋すると莫大な財宝をアモン神殿へ寄進した。そして、アモン神殿に仕える神官達は徐々に権力を蓄え、やがて政治にまで口を挟むようになる。イクナテン王の父であるアメンヘテブ3世も彼らの力を何とか押さえ込む策をとるが、神官達の巧妙さには勝てなかった。そこでイクナテンは自らが政権を握ると、神官達から政治を切り離すため、都をテーベから100キロ下流にある、アモン神殿のないアマルナという地に遷都してしまう。その都の名をアケトアテンと言った。その意味は太陽の地平線という意味で、自らも太陽の申し子としてイクナテンと称した。そしてついに国家神を多神教のアモン神から一神教のアテン神(アテンとは太陽の光という意味)に変えてしまう。しかし、この宗教改革にはイクナテンの妃であるネフルティティの影響が大きかったお言われている。ここで王妃ネフルティティのことを記述したい。
ネフルティティとは「外国から来た美しい人」という意味で彼女はエジプトとエジプトの敵対国ヒッタイトに挟まれた小国ミタンニ王国(現在のイラクのバグダッドのあたり)の王女であった。その王女時代の名をドトゥパといった。ミタンニ王国は絶えずヒッタイトに脅かされていた。その当時イクナテンは王子であった。彼は大変聡明な王子で、多くの国を見聞するためによく旅に出た。そしてミタンニ王国にドトゥパという大変美しい王女がいることを知り、将来は自分の妃に迎えようと思っていた。しかしミタンニ王はエジプトと同盟を結んでいたこともあり、イクナテンの父であるアメンヘテブ3世の強い要望で彼女をアメンヘテブ3世の側室として差し出してしまう。
やがてアメンヘテブが亡くなると、イクナテンは彼女を正妻として迎えるのである。二人はそれはそれは仲の良い夫婦であり、国民からも大変慕われた。二人は6人の娘をもうけた。しかしネフルティティには一つだけ不満があった。それはエジプトの宗教が多神教であり、自国のミタンニは一神教であったため、エジプトの宗教には馴染めなかったのである。しかも二人の幸福はそう長くは続かなかった。イクナテンは30歳半ばを過ぎると水痘症にかかってしまう。やがて、彼の顔は馬のように長くなり妊婦のようにふくらみ異様な姿になった。今でもエジプト考古学博物館にはその怪奇な像が残されている。その後二人の仲は段々と冷え込み、やがては醜い政権争いを繰り広げることになる。
イクナテンはネフルティティに政権を渡したくないため、長女のマケナテンを、従兄弟にあたるスメンクカーラと結婚させ、次期ファラオに仕立てようと企てる。しかし二人とも相次いで急死してしまう。イクナテンは最後には自分の三女のアンケセナーテンを正妻にする。なぜこのようなことをしたかというと、当時のファラオになる条件は継承権のある女性と結婚した男性がファラオになったからである。イクナテンは自分の死後、ネフルティティが再婚する男性に政権を渡したくなかったのであろう。そしてイクナテンの死後、妻であり娘であるアンケセナーテンはあのツタンカーメンを夫として迎えるのである。このイクナテンの宗教改革は彼一代で挫折してしまうことになる。また、都はテーベに戻された。
現在アマルナで発見された色彩を施したネフルティティの胸像はドイツ・ベルリンのエジプト博物館に展示されており、その美しさは目を見張るものがある。このイクナテン時代の芸術をアマルナ文化といい蜍`を重んじたすばらしいい芸術品が数多く残された。
(5) 少年王ツタンカーメンと妻アンケセナーテン
少年王ツタンカーメンにはいくつかの謎がある。その一つは彼の出生についてである。彼は一体誰の子であったのだろうかということである。イクナテンの子であったという説もあるが彼の晩年の行動からすると疑わしいし、またアメンヘテブ3世の側室に生ませた子という説もあるが、ツタンカーメン出生時にアメンヘテブ3世が生存していたとは思えない。もう一つの謎は彼の死因についてである。ツタンカーメンは19歳で急死する。しかしその死因については判明していない。死因の一つ目は、当時の王族は血縁同士の結婚が多く、それが原因で病死したという説。二つ目は次期ファラオの座を狙っていた当時のホルムヘブ将軍に暗殺されたという説。三つ目は狩が好きだった少年王が狩の途中に事故に遭い志望したという説がるが、現在ルクソールの王墓に眠っている彼のミイラからは残念ながら死因は解明できていない。
現在エジプト考古学博物館には約2,000点にもおよぶツタンカーメン王の財宝が展示されている.あの日本にも来た黄金のマスクや装身具、彼が日常生活で使っていた調度品等、その見事な出来栄えは到底今から3,360年前のものとは信じ難い。余談になるが、ある時、元大蔵省の大阪造幣局長だった人が、ツタンカーメン王のネックレスやブレスレットの装身具を見た時、しばらく呆然として動かなかったことを思い出す。同氏は造幣局時代天皇陛下の勲章等の制作責任者であったらしく、本人曰く、現在の職人でもここまで見事な細工はできないだろうと言っていた。
それにしても見落とせないのは、ツタンカーメン王の妃アンケセナーテンが彼と楽しく過ごしただろう王宮の庭にあった木々の小枝が、王墓にそっと入れたのだろうか今でも色こそ変色しているが当時のままの形で、木の葉もそのまま残されている。きっと砂漠地の気候が保存に適していたのかもしれない。それにしても華やかな財宝と違って彼女の気持ちがなんとなく伝わってくるようである。また彼女は王より3〜4歳年上であったという。子供は二人授かったが、悲しいことにいずれも死産であった。今でもその水子の二つの柩と思われるものも残されている。そして玉座の背もたれに描かれているツタンカーメン王に初々しく香料を付けている。やっと幸せをつかんだ王妃の姿を見る時、彼女の不幸な生涯を考えざるを得ないのである。彼女は幼少の頃はやさしい両親のもとで何不自由なく幸せに育てられた、しかしその後両親の骨肉を争う姿を見、やがて父王の妻とされ、やっと最愛の夫とめぐり合い、幸せを掴んだのもつかの間、夫に先立たれ、次期ファラオを選ぶため、また再婚しなければならなかったのである。
(6) ラムセス2世
古代3,000年の歴史の中で最も偉大なファラオはラムセス2世であろう。彼はBC1,300年代のファラオであり、当時の常識では信じられない90歳過ぎまで生きた。なにせ当時の平均寿命は40歳そこそこであったというから、まさに驚異的といえる。ラムセス2世はその間120人もの子供をもうけている.現在ならばギネスブックものだろう。ラムセス自身は実際に自分は不老長寿であり死ぬことはないと思っていたらしい。当然のことながら子供達はほとんどがラムセスより先にこの世を去っている。
今エジプトの古代遺跡の大部分がこのラムセス2世のものであり、あの有名なカイロから800キロナイル上流のアスワンにあるアブシンベル神殿もその一つである。
また、興味深い話として、旧約聖書にあるモーゼの出エジプト記で、モーゼがヘブライの民を引き連れエジプトから逃れた時代がこのラムセス2世の治世であったという。きっと“十戒”にあるスエズ湾の海水が二つに割れ道を作ったというのも、当時干潮であった海をモーゼ一行が渡った後、海は満潮になり、追っ手のラムセス軍は進撃ができなかったのではないだろうか。また余談になるが1869年にフランスのレセップスが難工事の末にスエズ運河を完成させるが、ラムセス2世もBC1,300年代に運河を造ろうとしたらしい。しかし戦略上の都合から実現しなかったが、何せ古代のファラオ達はあの巨大なピラミッドさえ30年間で完成させてしまうのだから、ラムセス2世がその気になれば、さほど困難ではなかったであろう。ラムセス2世は第19王朝の3代目のファラオであるが、今でもエジプト考古学博物館にセティ1世とミイラになって眠っている。現在は一般来場者にも公開されているので、エジプトに行かれたら是非対面されることをお勧めする。
(7) グレコ・ローマン時代
古代エジプト末期をグレコ・ローマン時代という。この頃はすでにマケドニアからの文化とも交流し、最後の王朝プトレマイオス朝になるとギリシャの影響がより強くなる。勇猛なエジプトの軍隊もいつのまにかプトレマイオス朝の傭兵と化し、エジプト人も自らのエジプト名をギリシャ名に変えたりして、古代エジプトの文化はだんだんと衰退していく。特にヒエログリフの伝承には、その役割を持つ“書記”が必要であるが、だんだんとその数も減り、やがてギリシャ語に取って代わられる。
(8) クレオパトラ7世
プトレマイオス朝の都は地中海に面したアレキサンドリアにあった。当時アレキサンドリアは世界ではローマに匹敵するほど注目された国際都市であった。あの世界七大不思議の一つである高さ140メートルのフェロ灯台もこの地にあり、灯火をたいて地中海の海の安全を守った。
また大図書館もあり、当時の世界各地の文献が集められ、世界各地から学者達も集まっていた。残念ながらこの図書館はクレオパトラの父であるプトレマイオス12世の時、戦火で焼失してしまう。現在残っていれば世界遺産になっていたことだろう。プトレマイオス朝の末期になると、ヨーロッパ各地はローマ軍によって次々と征服されていく。プトレマイオス12世の娘であったクレオパトラは、弟のプトレマイオス13世との政権争いにローマ軍のシーザーの力を借りて勝ち、やがてクレオパトラ7世となる。彼女は聡明で美人であったといわれている。しかし、現在アレキサンドリアにあるグレコ・ローマン美術館のクレオパトラの頭部像からは、世に言う絶世の美人とは言い難い。むしろ、彼女の教養と機知に富んだ行動が彼女の魅力として伝えられているのだろう。
クレオパトラはローマ帝国からエジプトを守るため、当時ローマの執政官であったシーザーと結婚する。そして二人はアレキサンドリアから800キロ上流にあるテーベ(ルクソール)へ船で新婚旅行を兼ね、国家神であるカルナック神殿のアモン神に婚姻の報告に行く。きっと神殿では古式に則った厳かな儀式が執り行われたことだろう。
やがてシーザーがローマで暗殺されると、クレオパトラはローマの将軍であったアントニオと再婚する。そしてBC30年ローマ軍のオクタビアヌス将軍との海戦に敗れ、プトレマイオス朝は滅び、古代エジプト3,000年の歴史は幕を閉じることになる。
筆者は1988年11月から1992年3月までエジプトに滞在した。当初は古代エジプト文明に関してはさほど興味を持っていた訳ではなかった。しかし多くの人をエジプト考古学博物館やピラミッド案内しているうちに古代エジプトに関することがだんだんと、理解できるようになり、いつのまにか夢中になっていったのである。いわゆるハマッテしまったのである。今回の執筆は1999年1月、ジンバブエのハラーレで書いたものだが、手元に文献もなく、記憶にあるがままに記述したもので、あるいは記憶違いや誤りがあるかもしれない。また全体的には雑ぱくな感もあり、部分的には枝葉末節の個所もあるが、紙面の関係もあり詳しく記述できないところも多く、お許し願いたい。
また紙面が許されれば、古代エジプトの神話や古代エジプトインの死生観、また当時の食生活等も興味深いものがあるが、それはまた次の機会にと思っている。最後に今回の執筆に当たり、少しでも多くの方に古代エジプト文明に興味を持っていただければ幸いと思い、浅学の身ながら恥を承知の上で発表させていただく次第である。
(杉浦勇三 すぎうらゆうぞう 2002/01/10)